突然LDHに沼った人のブログ

全箱推し。一人の男に絞れない女の戯言。

文句を言いながら、それでもEXILEを観た一年

2025年は、EXILEというグループと真剣に向き合わされた一年だった。

楽しかった、だけでは終われない。

怒りや違和感、失望も含めて、それでも現場に足を運び続けた。

 

上半期の「WHAT IS EXILE」は、本来とても誠実なツアーだったと思う。

誰かが欠けていても、今ステージに立っているメンバーこそがEXILEだと、

毎公演が“本番”として積み重ねられていた。

 

だからこそ、千秋楽だけを特別視し、

それまでの公演をすべて「復帰への布石」のように扱う報道には、

強い違和感を覚えた。

 

怪我で本編に立てなかったTETSUYAが、

最終日に開演前から客席を温めたあの時間。

佐野玲於が「EXILEに相応しい存在であることを証明したい」と語った言葉。

そうした一つひとつの積み重ねが、

このツアーの核だったはずだ。

 

それでも物語は、

「ATSUSHIが戻ったから完成したEXILE」という方向に回収された。

“完全体”という古い価値観に、

せっかく更新しかけたEXILE像が引き戻されてしまったような虚しさが残った。

 

下半期の「THE REASON」は、

その違和感を抱えたまま臨んだツアーだった。

 

期待しなかった初日は、正直とても楽しかった。

神谷健太が歌った瞬間の会場の悲鳴、

EXILE THE SECONDの来年のツアー発表で素直に喜んだ自分。

EXILEという箱の中で、パフォーマーが輝く姿を、ちゃんと浴びられた。

 

けれど、期待してしまった大阪以降、

また同じ構図が顔を出す。

 

ATSUSHIソロコーナーや思想映像、

「誰かを救う」「癒してあげる」という言葉。

グループを観に来ているはずなのに、

誰か一人のためのEXILEを見せられている感覚が強くなっていった。

 

それでも、すべてが否定だったわけではない。

演出過多のti amo、夏夏のステッキ、24karatsの高揚感、神谷健太という存在、EXILE の曲で踊るパフォーマーたちの姿、

EXILEでしか得られない瞬間は、確かに存在していた。

 

だから余計に思う。

EXILEに必要なのは、

誰かの帰還や感動的な演出ではない。

メンバー全員が等しく光を浴び、

「今ここに立っている人たち」がEXILEだと、

迷いなく言える構造だ。

 

文句はたくさんある。

それでも、私は観た。

怒りながら、考えながら、現場に足を運んだ。

 

それが、2025年の私とEXILEの関係だった。

 

来年も同じ距離感かもしれない。

それでも、EXILEを観てしまうかもしれない。

 

文句を言いながら、

それでもEXILEを観た一年。

これ以上正直な総括は、たぶんない。